オリエント世界には治水や灌漑のための共同作業の必要や, 異民族との抗争のために強大な力を持つ指導者が必要であった. また農耕生活では自然の恵みに脅威を常に感じていたので,自然を神々の営みと考え, 自然神をまつる宗教が重要となり,宗教を政治に優先させた.王は絶対的な権力を持つ専制君主として, 貴族平民奴隷の上に君臨した. オリエント世界の特色は専制君主制と祭政一致であり,文化的にも宗教的実用的文化の発達にあった. いっぽう,ギリシアやローマは民衆の力を根本としたところに始まる.アテネは最初イオニア人のポリスであったが, ポリス成立の時点で,貴族制に移行.王権は形骸化していった. ローマの共和政もラテン人の貴族がエトルリア人の王を追放して共和政を樹立する. いずれにしてもエジプトやオリエント世界との特色の違いとして大きな力を必要としなかったところに 共和政や民主政の成り立ちをみることができる.
民主政治というスタイルをギリシア人が最初に発見し,制度化し, 市民権を持つ18歳以上の成年男子全員による民会が最高議決機関となった. 国家の重要事項はすべて民会や民主裁判所が多数決をもって下した. 役人の権力は年一度の抽選によって細分化され,僭主政治が行われないよう注意され, 寡頭政治でも専制君主でもない新しいタイプの支配体制としてスタートを切った. アテナイを支えたのは主に農民である.これら船の漕手として活躍した無産市民の政治的発言力のおかげで, 絶対的な海軍力を持つことができ,彼らは民主化の財政基盤として,サラミスの海戦で活躍した. デロス同盟を結成し,エーゲ海一帯のポリスが加盟,そしてアテネ帝国を形成したのである. ペリクレス時代に民主政治は完成の域を達し,学芸が奨励され,パルテノン神殿も建造された. また民会の出席者や官職についた者への日当が支給されるようになったため, 無産市民も仕事を休んで政治に参加するようになった.婦人や在留外人,奴隷には参政権がなく, 専門の官僚は存在しないことで官僚制ではなかったが, 自分の専門分野に閉じこもる無機的な人間が社会を構成するのであれば, 民主政は生きることをやめたであろう.アテナイ民主政治の変遷をローマの共和政と比較すると, アテナイは本来クローレス(私有地)をもつ人々の間の平等だったが,やがて無産市民にも広げられたこと. ローマ共和政はあくまでも土地所有者を中心とした平等であった点が相違点としてあげられる. また古代の市民は土地,奴隷の所有者として政治や軍事に身を捧げる消費者的性格が強かった. 美しい神殿が建てられたときの支出明細書を石に刻んだものをみると,市民も奴隷も外人も同じ日当で働いている. 市民は農業以外の生産労働に高い倫理的価値を認める思想を生まなかった. またアテネ民主政の恩恵と富裕市民の御馳走などにより,市民はその日その日を楽しく暮らす傾向にあった. 富裕市民が輪番で負担した劇の上演を,国家の祭典としてみな楽しみにしていたし, 人々は政治に参加することで公私両面において経験を積み,自主独立で自足した人格をもっていた.
大土地所有者で完全市民権を有する貴族が官職を独占して,実権を握った. 最高行政官の執政官も貴族から選ばれた.中小農民を中心とする平民には,はじめ参政権がなく, 民会は開かれたものの貴族会だけであり,平民の中心である中小農民の重装歩兵の活躍で 平民も参政権を要求するようになった.ローマの民会は一票の格差がめざましく,富裕者に有利な世の中で, プレプスとパトリキの間には長いあいだ身分闘争があり, 公職や神官職の就任は血統貴族であるパトリキに独占されていた. ローマは勢力拡大のために軍事的進出を続け,ローマが征服した戦争によって獲得した土地は リキニウス法を無視した閥族や騎士階級によって占有された. かれらは没落した中小農民の土地も兼併し,その結果, ラティフンディウムという奴隷制に立脚した大農場経営が発達して果樹などの作物の栽培や牧畜を行って 富を蓄えるものが現れ,貧富の差が激しくなった.中小農民は安価な穀物の流入などによって没落,離農してゆき, パンや見世物を求める無産市民となり,一部は傭兵となった.閥族や騎士階級の台頭により, 共和政はかれら少数者による寡頭政治となり,中小農民の没落し,市民皆兵の原理は崩壊した. ローマは農業国であったため,平民会は土地所有者に有利に仕組まれ,また元老院が市民に対して大きな権威を持ち, 国政を指導していた.非常時のための任期半年の独裁官を設けたのもアテナイの民主政との違いといえる. ほかにローマの特色として家父長制があげられる.ローマ市民の柱たるものは父であり, ファミリアの性格に大きな影響を与えていた.また幼児期の子どもたちにおいては乳母と家庭教師の存在が大きかった. 子どもたちは会話に欠点なくラテン語を話せることを求められ,およそ7歳までは家のなかで過ごした. ローマ市民社会に生きる人々において,さまざまな身分の人々や出自の異なる市民が肩を並べて生活することが 普通の状態であった.ローマをみたときに多数の奴隷がいたことは動かせない事実であり, 農園奴隷,都市の奴隷,解放奴隷とさまざまであり,幸運なものは主人によって解放されることもあった. これらのことをペトロニウスの『サテュリコン』で述べられている. また都市への贈与をみればアウグストゥスのために造られた柱廊や公共広場,上水道, 図書館など市民の憩いの場もたくさん残されており, 富裕者のエヴェルジェティズムといわれた記憶の永続化は多くの貧しい市民を救った. アテナイ民主政およびローマ共和政の市民は戦士であることで,軍事的責任を果たすことができ, 市民の誇りや価値,尊厳といったものはこの隷属していた時代にも「彼らは法の下で自由で平等な, そして自らで自らを支配する市民」(シティズンシップ概念の歴史的考察,2009,p63,的射場敬一)として生きたのだ.